お説教は二択を迫る行為

未分類

※これは2016年にFacebookに投稿した記事をリライトしたものです。

仙台市内の小中学校は本日終業式を迎え、夏休みとなる。終業式と言えば、通信簿。私は通信簿を父親に見せるのが、本当に嫌だった。

テストの点数だけは良かった。100点が多かったように記憶している。でも通信簿の評価はいつも悪かった。たぶん授業態度が悪かったからだろう(今思えば、私は何らかの発達障害を抱えていたのだろう)。

夜、父親が帰ってくると、晩酌が始まる。今夜の肴は私の通信簿。そして始まる、長い長いお説教。30分では済まない。1時間に及ぶことも。もちろんその間は正座。

一方の父親は、酔っ払いながら、時折タバコを吸いながら、クドクドクドクドとお説教を続ける。酔っ払っているから、同じ話の繰り返しとなる。聞かされる方もいい加減飽きてくる。

そもそも父親から勉強を教わったことなど一度もないし、塾に行かせてもらったこともない。それで通信簿だけを見て評価されるのだから、たまったものではない。祖父が生きていれば、こんな下らないお説教はすぐにでも止めさせ、私を解放してくれただろう。

お説教というのは「黙って従う」か「反発して出ていく」かの二択を迫る行為だと思う。子供の頃は「黙って従う」の一択。「反発して出ていく」を選んだら生きていけない。でも大人になれば「反発して出ていく」という選択肢も選べる。だから私は就職と同時に県外へ出ていった。今でこそ仙台に戻り家業を継いではいるけれど、私と父親の間には依然として、高い壁と、深い溝がある。

私は息子の通信簿を一度も見たことがない。
もちろんお説教など一度もしたことがない。

「そうしなかった」のではなく、
「その必要がなかった」のである。

昨夜は息子から、C言語のポインタについて質問されたので、紙に書きながら概念を説明した。私と息子の関係は本当に良好で、壁や溝は感じない。若干の反抗期はあったものの、私の事は尊敬しているようだ。

父親と私の関係。
私と息子の関係。
この「差」はなぜ生じた?

「お説教」という「黙って従う」か「反発して出ていく」かの二択を迫る行為。その結果、息子からどう見られているか。

死んだとき、人はその一生をまるで映画を観るかのように振り返るという。誰かを楽しませた時も、苦しめた時も、相手の立場に立って追体験するのだとか。その時になって初めて、自分のしてきたことが分かってもらえるのだと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました