世の理

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この記事は2018年にFacebookに投稿した記事をリライトしたものです。

私のいないところで、私の悪口を言う人がいる。私もその人が嫌いだったので「相思相愛」ならぬ「相嫌相憎」の関係である。

でも、最近そうでもなくなった。少なくとも私はニュートラルなので「片思い」ならぬ「片嫌い」の状態である。

その人は組織や政治、予算のお話に詳しくて、何事においても、キッチリキッチリしている。その一方、規約を盾に若い人の頭を押さえつける傾向があり、その発言にはまるで「情」が感じられないため、嫌われ役でもある。

でも、自分が会社のお金を扱うようになって、その人の気持ちが何となく分かるようになった。

人には「情」がある。人の「情」に訴えるから、ボランティアや寄付は集まり、慈善活動が成り立つ。しかし、税金のような「公金」を扱う人が、それを「情」で運用していいのか、というと、そうはならない。キッチリと規約を決めて、キッチリと運用する必要がある。

そのためには、しっかりした組織も必要だし、それを運用する規約も必要。組織を安定させ、維持していくためには政治力も必要だし、組織を構成するメンバーが「情」に流されてはならないので、はみ出しそうな時には押さえつけないとならない。

こうしてみると、たとえ嫌われがちな存在だったとしても、キッチリキッチリしている人の存在は、やはり必要なのである。

ただし。ただし、である。

そういう人がリーダーシップを取れるかどうかはまた別問題。雇用関係や給料の縛りがあるならば嫌々ながらも従うかもしれないが、そうでないならば、人は従う理由が全くないのだから。

「この人だったら損得関係なくついて行きたい!」と思えるかどうか。それはその人の「人」で決まる。それだけ「尊敬」され「信頼」される「人」かどうか。

要はバランス。キッチリキッチリが求められる職業にあっても、人としての「情」があるかどうか。カリスマ性があったとしても、キッチリとした何かを持っているかどうか。

自分で書いていて思った。なるほど、これが「世の理」ってやつなんだな。

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